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森鴎外 雁:古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条(かみじょう)と云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人(いちにん)であった。その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外(ほか)は大学の附属病院に通う患者なんぞであった。大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気(こぎ)が利いていて、お上(かみ)さんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。時々はその箱火鉢の向側(むこうがわ)にしゃがんで、世間話の一つもする。部屋で酒盛をして、わざわざ肴(さかな)を拵(こしら)えさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘(わがまま)をするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。先(ま)ずざっとこう云う性(たち)の男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅(ほしいまま)にすると云うのが常である。然(しか)るに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗(すこぶ)る趣を殊にしていた。
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