もっともその時分には、あの宿屋に御夏さんと云う有名な別嬪がいて老梅君の座敷へ出たのがちょうどその御夏さんなのだから無理はないがね無理がないどころか君の何とか峠とまるで同じじゃないか少し似ているね、実を云うと僕と老梅とはそんなに差異はないからな。 ミチリミチリと椽側を伝って近づいて来る。 ぼーとしたあとは勝手にしろ、どうせ気の利いた事は出来ないのだからと軽蔑の極眠たくなる。 弘法大師に向って昨日書いた通りの筆法で空海と願いますと云う方がまるで書体を換えてと注文されるよりも苦しいかも分らん。 フライをどうなさったんでございます屋根の瓦があまり見事に焼けていましたから、ただ置くのも勿体ないと思ってね。 このほか五分刈、三分刈、一分刈さえあると云う話だから、しまいには頭の裏まで刈り込んでマイナス一分刈、マイナス三分刈などと云う新奇な奴が流行するかも知れない。 そればってんが……と言い掛けた三平君は座敷中を見廻わして今日は御嬢さんも見えんなと半分妻君に聞いているや否や次の間からとん子とすん子が馳け出して来る。 主人はやがて話頭を転じて、 赤い本と並んで例のごとくニッケルの袂時計が春に似合わぬ寒き色を放っている。 だって苦沙弥君は立派な麦藁の奴を持ってるじゃありませんかところがあなた、せんだって小供があれを踏み潰してしまいましておやおやそりゃ惜しい［＃惜しいは底本では措しい］事をしましたねだから今度はあなたのような丈夫で奇麗なのを買ったら善かろうと思いますんでと細君はパナマの価段を知らないものだからこれになさいよ、ねえ、あなたとしきりに主人に勧告している。 ほかの部分は夜目でよく見えんのに、顔だけが著るしく強い色をして判然眸底に落つるからである。 やがて爺さんは、もうよかろう、引っ張らっしとか何とか云うと、婆さんははあーと答える、娘はあいと挨拶をして、名々に蛇の頭を持ってぐいと引く。 分らないはずでさあ。 そうでございますか、私よりえらいですかと笑いもせず怒りもせぬ。